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研究〜那須家の興亡
実は那須地域は由緒正しい那須家によって納められてきた歴史があります。研究してみると、那須地域には昔から人々を惹きつける魅力があったのだということが分かり、非常に興味深いものです。カオリが調べられる範囲での情報を以下にまとめてみました。ただし、情報源が限られていますので、正しい史実に基づいていない可能性もあります。皆様からの情報投稿、参考文献の紹介をお待ちしております。

(1)はるかなる那須王朝!

大昔の那須にはいったいどんな人が住んでいたのでしょうか。
那須には那須国造碑という石碑が残っています。
これを読むと謎が解けるのかもしれません。
その那須国造碑の碑文には、
「仰惟殞公広氏尊胤国家棟木苦」
とあります。
これは、ここで亡くなった人(那須直韋提)は広氏の血を引く尊い人で那須の国を支配する重要な人であった、という意味だそうです。
広氏とは、後漢王朝の子孫である広原忌寸のことだといわれています。
後漢王朝???どうしてそんな人が那須に関わっているのでしょう。

それには遠いところまで思いをはせないといけません。
オリエント(アッシリア王朝)につながるウガヤ王朝と月氏が連合してできたのが扶余王朝。
この扶余王朝とインドの日神王朝が合体してニギハヤヒ王朝を作ります。
ニギハヤヒと神武、高句麗、百済はすべて扶余族であり、ニギハヤヒ王朝とは同族関係になります。
このニギハヤヒ王朝が、鹿島の神と一緒に関東に入り、那珂川の上流と下流に分かれて開拓しました。
そしてさらに出雲王朝である新羅(スサノオ系)との連合で2世紀初め頃、初期那須王朝を作ります。
このように、古代オリエントから陸のシルクロードを通ってきた民族と、海のシルクロードを通ってきた民族が中国、朝鮮半島でミックスされ、日本に渡り那須まで流れてきたことがうかがえます。

220年、中国の後漢が滅びると、後漢王朝の子孫である広原忌寸(後漢孝献帝の男孝徳王からでた)は内乱の続く北九州を避け、初期那須王朝を頼りに那須に亡命してきました。
初期那須王朝にこの広氏を加え、本格的な那須王朝ができあがります。
その後、那須国王は崇神朝に那須国造に命じられます。
ところで、那須には前方後方墳があります。
これはニギハヤヒの系統に許された古墳です。
前方後方墳の2つの「方」は中国と新羅の方墳を意味しているものであるそうです。
これらの古墳からは、中国後漢の「キホウ鏡」をはじめとして中国製の鏡が出土しており、初後漢王朝の広氏が持ち込んだものとの見方があります。
ああ、なんだか壮大なスケールですね!

(2)那須王朝はどうなった?

2世紀以来、那須地方で栄華を誇った那須氏も平安時代に入ると次第に弱体化していきました。
当時の日本の国境は実質的には白河ノ関までで、そこから北は蝦夷地でした。
平将門の乱、平忠常の乱などで動乱は次第に北へと移動してきます。
白河ノ関を堺に奥羽地方と接している那須郡では治安の悪化に悩み、当時の那須郡主である那須大夫は朝廷に相談しました。
朝廷は、前九年の役が那須郡に波及することを恐れ、藤原貞信を那須に送ります。
藤原貞信の父は藤原通家、母は源頼信の娘でした。
ちなみに藤原通家は関白藤原道長の孫にあたります。

藤原貞信は那須の地で治安を乱す原因であった盗賊などを退治します。
貞信は度々那須大夫の家を訪れ、そして、那須大夫の娘と恋に落ち結婚します。
那須氏にとっては、このような藤原・源系の血が那須家に入ることにより、これから始まる動乱の時代を乗り切ろうとしたことと思われます。
やがて那須郡を与えられた藤原貞信は那須藤権守貞信卿と名乗ります。
新興那須氏の始まりです。
1056年には貞信が建てた神田城が完成します。
城下町は次第に整備されました。
その頃、奥羽地方ではしばしば叛乱がおこりました。
そのたびに征伐のための軍が朝廷から派遣されてきますが、奥羽地方と接する白河ノ関周辺で兵力を補充したり訓練をしたりしていたそうです。
最前線の場となった那須郡において新興那須氏は鍛えられ急速に武士化していきました。

(3)平治の乱と那須家

中央では長い間藤原氏による摂政・関白の政治が続いていたため、天皇家の手に政治の権力を取り戻そうと、白河、鳥羽と院政の時代に入ります。
しかし、これに反対する藤原氏一族と、皇室内部の確執、さらに源氏、平氏までをも巻き込む保元の乱が起こります。
この保元の乱後、源平の力の均衡が狂います。
それまで藤原氏のもとで勢力を伸ばしていた源氏は力を弱め、平氏が台頭していきます。
この平氏の台頭をにがにがしく見ていた藤原・源氏が平治の乱を起こしますが、歯が立たず平氏の圧勝に終わります。
破れた源義朝は殺され、その長男次男も命を落とし、三男頼朝は伊豆に流れ生きながらえました。
頼朝の3人の弟のうち2人は出家し、一番下の弟義経は成人後出家するという約束で生きながらえます。
このように源氏はすでに壊滅状態となってしまいました。

平治の乱には、那須貞信の孫にあたる那須資満およびその息子である資房・宗資らも源氏方で参加していました。
その間、神田城を守っていたのは那須資満の三男資隆でした。
父の那須資満は戦死しましたが、兄の資房・宗資は那須に逃げ帰る途中で隠れ、再び源氏が盛り返すのを待っていたところを平清盛に勅免され那須に戻ることができました。

那須家はもともとは源氏・藤原氏と縁の深い一族です。
しかし、当主資隆は時代のなりゆきで、平治の乱後、平氏側につくことになりました。
平治の乱で源氏方について戦った資房・宗資は神田城へ入城することができませんでした。
宗資は鳥山に稲積城を築きます。
平氏系那須氏は神田城、源氏系那須氏は稲積城と分かれて暮らすこととなりました。
一方、長兄の資房は出家して日光山にこもり、禅雲大徳となります。

(4)那須与一の誕生

1168年、神田城で那須資隆の第十一番目の子供として誕生したのが与一です(与一10歳の頃、居城を高館城(山)、福原城(平地)に移します)。
与一は兄たちとともに、弓や馬の稽古に励みます。
与一の才能を表す伝説が数多く残されています。
与一は稲積城にいる宗資から弓を教わり、源氏側の戦法を身につけます。
那須岳で弓の稽古をしていた与一は、ある日、源義経と出会います。
じつは源義経は成人しても約束を違え出家せず、源氏再興をはかり奥州平泉の藤原氏の元に身を寄せていたのです。
時機をみて、義経は奥州から鎌倉にいる兄頼朝のところに向かう途中で那須温泉神社に戦勝祈願に来ました。
源義経は与一に案内され那須資隆に会い、源氏への忠誠をお願いします。
しかし、すでに資隆の子供のうち9人を平氏方に従軍させていました。
よって、残る2人の子供のうち、与一の兄の為隆をすぐに鎌倉に向かわせ、与一は元服後に従軍させる約束をしました。
 
(5)源氏と平氏

源頼朝は鎌倉を拠点として関東で勢力を拡大していきます。
関東の武士たちは次々と頼朝に味方していきます。
この噂を伝え聞いた京都の平氏は、「流罪の頼朝に何ができる?」とアナドっていました。
しかし、いざ合戦ということになっても、20年以上も栄華を極め、貴族の生活にひたりきっていた平家一門は、馬に乗ることもままなりませんでした(久々に馬に乗ったらお尻が赤く腫れてしまったそうです)。
それでも平氏は京を出てから道々に兵を集めて、7万の兵を従え富士川までやってきました。
一方の源氏は20万の兵を率いて箱根を越えました。

富士川での決戦の時を控えた夜中、甲斐源氏の武田信義が勝手に奇襲作戦に出て、ひそかに平氏の後ろに回ろうとしたところ、川にいた水鳥が驚き一斉に騒ぎ始めました。
この騒ぎを聞いた平氏側はすっかり怖じ気づき、我先にと逃げまどい、京都目指して退却してしまいました。
源頼朝はこのとき、平氏を追わず鎌倉に引き返します。
関東でまだ源氏方についていない足利氏などの統一に力を入れるためでした。
この混乱に源氏再興の望みをかけ、京都の平氏を滅ぼし源氏の頂点に立とうと企んだのは越後源氏の木曽義仲(源頼朝とは従兄弟にあたる)でした。
義仲征伐に北陸入りした10万の平氏軍を蹴散らし、すっかり意気消沈した平氏を滅ぼすために京都に入ります。
しかし、義仲は京都で搾取と暴行を働き、京の町では鎌倉の源頼朝に義仲を成敗してほしい、という声が高まります。
一方で京を追われた平家一門は讃岐の屋島にいたるまでの14ヶ国を支配下におきました。
これを放っておけないと義仲の軍が追い、水島合戦が起こりました。
この合戦では平家方が勝ちました。

(6)源氏の再興と那須与一

義仲が京の町で数々の悪行を行ったため、後白河法皇は再三鎌倉の頼朝に使いを送り、義仲征伐をお願いしました。
義仲は平氏と手を組むとかいろいろな策を練りますが、どれもうまくいかず、頼朝に討たれました。
後白河法皇は、続いて平氏征伐を頼朝にお願いしました。
これを受けて源氏は一ノ谷の合戦で平氏と戦い大勝利をおさめます。
平家一門は屋島方面に落ちていきました。
しかし、源氏はそれ以上の深追いはできませんでした。
陸の戦いでは強さを見せた源氏ですが、海の戦いでは平氏にはかなわなかったからです。

さて、那須家当主資隆は、源頼朝と与一に那須家の命運を賭ける決心をします。
元服後の与一は源氏方につき、鎌倉に向かいます。
源平の間で翻弄される地方武士、那須家の存続はこの英断により決まりました。
鎌倉に着いた与一は新田義重の娘と結婚します。
新婚生活を送っていた与一のもとに、源頼朝から平氏征伐の出撃命令が出ます。
与一らは平氏の拠点である屋島に向かいます。

(7)日の丸扇と壇ノ浦の戦い

平家側の軍船では、きたるべき源氏との戦いに備えて、作戦会議が開かれていました。
かつて、平家の守護神である厳島大明神の神主より
「この扇こそは平家の武運を守護するでしょう」
と言われた日の丸の扇を使って、巫女に戦いの占いをさせようということになりました。

源氏は戦いに備えて平氏側の動きを見張っていたところ、平氏の軍船の後ろから一艘の小舟が出てきました。
この小舟には美しい若い女が乗っていて、船の真ん中には赤い地に金色の日の丸の扇が棹の頭に立ててあったのです。
戦場とは思えないこの光景に驚いた源氏側の見張り役は早速義経に相談します。
「あんな妙なことをして、源氏を油断させようとしているのかもしれない。」
「いや、あの的を討ってみよ、ということかもしれない。」
と話し合い、あの的を射ることができるのは那須与一であろうということになりました。
与一は波打ち際から的を見ますと、100mほど離れたところに日の丸がありました。
海の中に入っていきますが、的まで75mというところで、それ以上は深くて入れません。
与一はその位置から弓を放ち、見事に的を射ました。
扇ははらはらと空に舞っていきました。
その光景が美しいと感激した平氏側は和歌を詠んだり、踊りを踊ったりしていました(ここは戦場ではないのか?)。
しかし源氏側もその場ではそれ以上の攻撃をしなかったそうなので、そんなものなのでしょうか。

屋島での戦いに利がないと悟った平氏一門は船で逃げ続けます。
陸では源氏の勢力が拡大し、もはや陸に上がることはできない状態となっていました。
平氏一門は壇ノ浦で源氏との合戦の覚悟を決めます。
扇の的を射た屋島の合戦から1ヶ月後、壇ノ浦にて決戦が行われました。
当初は平氏有利で進められていた合戦でしたが、突然イルカの大群が海に現れます。
これは珍しいと、早速平氏では占い師に占わせます(占いが好きな武士ですね)。
すると、占い師は、
「このイルカが元の方向に戻っていくようなら、平氏有利ですが、イルカがこのまま進むようなら源氏が有利です。」
と答えたそうです。
そう答えている間にもイルカは平氏の船の下をくぐり抜けて突進していきました。
きっと、平氏の武士たちは、顔が真っ青になったにちがいありません。

そんなこんなで平氏の足並みが乱れたなか、源義経は奇策にでました。
平氏側の船の水手、舵取りを倒せと命じたのです。
漕ぎ手を失った平氏の船は潮流に押し流されていくばかりになりました。
源氏に壇ノ浦まで追いつめられた平氏ですが、陸には源氏勢がにらみをきかせており、もはや陸に上がれなくなった平氏は負けを覚悟しました。
平氏一門は手に手をとって海へと沈んでいきます。
「水の底にも都はある」
と言いながら。

(8)那須与一と源頼朝

屋島の戦いでの功績が認められ、与一は源頼朝より領地を与えられます。
源義経は頼朝の命令に背き政治的に天皇に近づいたため、頼朝の逆鱗に触れました。
義経はかつて身を寄せていた奥州平泉の藤原家に戻ります。
与一はもともと義経を慕っていたため、頼朝は与一が那須家縁の奥州藤原氏方につくことを恐れました。
そのため、かつては平氏側につき、さらに高館城の合戦(梶原景時が那須氏を攻めた戦。梶原景時は屋島で与一が賞賛されたのに嫉妬していた因縁がある。)でも源氏にはむかった与一の9人の兄達すべてを赦しました。
またこれについて与一に責任を追及されることもありませんでした。
源頼朝は、義経を滅ぼし、さらに奥州藤原氏も倒し支配下におき、いよいよ全国制覇をするのです。

後白河法皇は頼朝の奥州征伐を称え、征夷大将軍に任じます。
源平動乱の時代は終わり、鎌倉時代に入ります。
頼朝が奥州征伐をしている頃、与一は後白河法皇に呼ばれて京都にいました。
頼朝は、朝廷受けの良い与一を介して幕府と朝廷を結びつけようとしていたのですが、次第に幕府と朝廷が対立するようになり、与一はその板挟みで悩むようになります。

(9)那須巻狩

源頼朝は狩りを好みました。
頼朝は富士の麓や那須野、三原野などで狩りを行いました。
この狩りでは、武士団の集団訓練とともに頼朝の武装力を天下に知らしめる意図がありました。
那須での巻狩では、那須家当主であった那須与一がホスト役として取り仕切り、頼朝を招待する形で行われました。
が、その巻狩で事件が起こりました。
長年因縁のあった那須家と梶原家が同じ獲物をめぐり弓を引き合ったのです。
この騒動の責任をとり、与一は那須当主を異母弟の光資に譲り(その時に与一には息子がいなかった)、越後へと発ったのです。
源頼朝の死後、赦免された与一は再び那須に戻ってきます。
鳥山城の南に寺を建て、落髪し法然の道に入りました。
源平合戦で命を落とした武士たちの弔いのための旅に出て、時々那須に戻ってくるという生活でした。
与一は旅の生活を30年余り続け、兵庫県神戸で64歳の命を終えました。
この頃、時代は源氏の時代は終わり、北条泰時による執権政治が行われている時代でした。

(10)戦国時代以後の那須家

与一の異母弟が嗣いだ那須家は室町時代に入ると、血族の中で争いがおき、下那須氏と上那須氏に分裂をしてしまいました。
その後、16世紀に上那須氏が滅び再び那須家が統一されました。

戦国時代末期、豊臣秀吉が全国統一をする過程で、小田原の北条氏を攻める際に那須氏にも参戦してほしいと秀吉から頼まれたのですが、那須家はこれを断ります。
このことにより、後に秀吉から所領を没収されてしまい、一挙に没落してしまいました。

江戸時代に入ると、那須家は徳川家康の憐により五千石を与えられ、かろうじて武士の座にいることになりましたが、結局、それから約30年後、当主に男子が生まれず、いったんは除封廃藩となりました。
那須家ではその後に養子、資弥を迎え、那須藩として1万2千石を与えられ那須家を再建します(鳥山藩として2万石に転封)。
資弥には嫡子がいなかったため津軽から養子、資徳を迎えます。
しかし、一族の間で争いが起こり、結局鳥山2万石は没収されてしまい那須家再建の夢はまたはばまれました。
18世紀に入り、資徳の息子である資隣は津軽より2千石の補助を受け、旗本となりました。
その後那須家は血を繋ぎ、資興の代で明治維新を迎えました。

(参考文献)
華の弓那須与一
那須 義定 (著) 単行本 (1998/12) 叢文社
内容(「MARC」データベースより)
古代那須氏はどこから来たか、日本の弓術の由来、波にゆれる平家の小舟の扇を射抜いた与一のヒキ目の秘術、与一が越後に流された理由など、不世出の弓豪がたどった光と蔭を追う。

以下、つづく(かなり未定)。
・那須という地名について
・那須に伝わる伝説


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